創立20周年 記念講演会

上田正昭氏

人権文化の輝く世紀をめざして

研究センター理事長(当時)・京都大学名誉教授
上田 正昭

 こんにちは。皆さんお忙しいなかをご参加いただきましてありがとうございます。山田知事、門川市長、お2人が祝辞のなかでも申されましたように、人権の世紀をめざしてわれわれは努力してまいりましたけれども、残念ながら、世界の各地や日本国内でも人権問題をめぐるさまざまな問題が起こっております。
 1つは、今日ほど命の尊厳が軽くみられる時代はかつてなかったということです。毎年自殺していく人が3万人を超えている。新聞やテレビで毎日のように、親が子を殺す、子どもが親を殺すなど、命の尊さというものが非常に軽んじられています。もう1度、私どもは命の大切さというものをしっかり考え直す必要があると思います。
 そして第2に、物は豊かになりましたけれども、心は貧しくなってきたのではないか。江戸時代ですが、貞享2年(1685)に丹波国桑田郡東懸村に誕生したのが石田梅岩です。石田梅岩は45歳まで京都の呉服屋の黒柳家に勤めておりましたが、享保14年(1729)に、徳川将軍でいうと8代将軍徳川吉宗の時代ですが、そこの番頭を辞めて、烏丸御池の近くですが、車屋町通御池上るで塾を開きました。
 心をいかに豊かにするか。自分の心だけではない。他人の心をいかに尊重するか。石田梅岩の学問を石門心学と申しておりますが、石門心学では「心の発明」ということを強調いたしました。私は、これは素晴らしい言葉だと思っています。「発明」という言葉は物にばかり使われますけれども、こんなに心が貧しくなった日本人は、人権問題の視点から心を発明する必要があると思っています。命の尊厳を改めて確認し、心を発明していくことが、21世紀の今日、人権の世紀をめざして非常に重要であると思います。

 よく世間では、人間は生まれながらにして平等であるというようなことを申しますが、これは間違った考えです。貧しい家庭に生まれる方もあれば、豊かな家庭に生まれる方もある。1948年の12月10日、第3回国連総会が世界人権宣言を採択いたしました。その第1条に、「すべて人間は、生まれながらにして自由であり」、平等とはいっていません。「生まれながらにして自由であり、尊厳と権利とについて平等である」と謳っています。この世界人権宣言が出ましてから今年は66周年になります。機会があればぜひ前文をお読みください。そして30条に及ぶ条文をお読みください。
 日本国憲法の規定している「基本的人権の尊重」の概念よりも、はるかに深く、はるかに広い概念が世界人権宣言では記されています。大変立派な宣言であります。しかし、宣言はしょせん宣言である。宣言に違反しても罰することはできない。そこで国連は、人権に対する国際法をつくってまいりました。いちばん最初につくったのは、ジェノサイド法、集団虐殺防止の法令であります。そして自由権規約、社会権規約、略して国際人権規約と申しておりますが、国際人権規約をはじめ、数えますとちょうど20の人権に関する法令を国連は定めました。わが国は、ご承知のように国際人権規約は1部留保しておりますが批准をしています。1979年でした。私はよく覚えております。
 日本国憲法の第98条第2項を機会があればお読みください。日本国憲法は「日本国民」を中心にしています。定住外国人の問題などは規定されておりませんが、憲法第98条第2項に、「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする」と、明確に書いています。日本国憲法には定住外国人の人権問題は書いてありませんけれども、国連の定めた国際規約には外国人の権利の問題もはっきり書いてあります。私は国連の人権規約あるいは人権法はわが国の憲法を補う、補完する重要な役割をもっていると思います。
 しかし、法律ができてもそれだけでは不十分です。1994年、第49回国連総会が開かれまして、1995年から2004年までを「人権教育のための国連10年」とすることが決定されました。そしてさらにもう10年続けることになったのです。私はその国連の人権教育の概念規定を読んで大変感動いたしました。私どもは人権というと、個人の人権ばかりをいう。己の人権ばかりをいう。国連は人権教育を次のように定義しています。「あらゆる発達段階の人々、あらゆる社会層の人々が、他の人々の尊厳について学び、またその尊厳をあらゆる社会で確立するための方法と手段について学ぶための生涯にわたる総合的な過程である」。お年寄りから小さい子どもさんまで、あらゆる発達段階の人々、あらゆる社会層の人々が、生涯にわたって他の人々の尊厳について学ぶ学習が人権教育であるというように、はっきり書いています。己はもちろん大事ですけれども、他の人々の尊厳と権利を侵してはならない。石田梅岩の石門心学が申しました「心の発明」を現代風に国連の人権教育は定めております。
あとで明石先生を中心に貴重なシンポジウムが開かれますので、私の記念講演の時間は30分です。30分以内で終わらなければなりません。

 そもそも世界人権問題研究センターができたのは、祝辞のなかにもありましたが、延暦13年(794)に桓武天皇が長岡京から平安京に都をうつされました。それから数えてちょうど1100年が明治27年です。当時の京都府民・京都市民は、平安遷都千百年を記念して6つの大きな事業をいたしました。
 1つは、3大事業といっている事業です。内容は、第2琵琶湖疏水の完成。琵琶湖疏水はできておりますが、続いてそれを延長する。その次は、水道事業と道路を広げる。その次は、市電を運行する。京都で市電が運行されるのは明治28年です。この3つを3大事業と申しております。
 3大問題といっておりますのは、都を京都にうつされた桓武天皇を祭神とする平安神宮をつくる。岡崎で第4回内国博覧会を開催する。今はずっと便利になりましたが、京都舞鶴間に鉄道を誘致する。いわゆる山陰線ですね。これが3大問題であります。
 この6つを見事に明治の皆さんは成し遂げられましたけれども、残念ながら人権の視角はまったく欠落しておりした。
 私は、平成6年が平安建都千2百年ですから、ぜひ人権問題を研究する組織をつくってほしいということで、先ほど祝辞をいただきました千玄室様、当時の平安建都千2百年記念協会理事長(後に会長)に構想をまとめて提案いたしました。会長は桑原武夫先生、副会長には当時の荒巻禎1京都府知事、あるいは田邊朋之京都市長などが就任しておられました。世界人権問題研究センターをぜひつくってほしい。それが認められまして検討部会ができ、私は検討部会長を務めました。いよいよ設立するにあたりまして設立研究会をつくって、田畑茂2郎先生に会長をお願いし、私が副会長になって、できたのが世界人権問題研究センターです。
 最初は抵抗もありましたけれども、ご理解ある皆様のご協力によって、本日は京都府議会議員の皆様、京都市議会議員の皆様もお越しいただいておりますが、議会でも質問をしていただいたり、いろいろご協力をいただきまして今日にいたりました。ご関係の皆様に改めて、高い壇上からではございますが、厚く御礼申しあげます。

 なぜ京都に世界人権問題研究センターをつくる必要があるのかと質問されました。私は、京都は人権問題と大変深い関係にあるのだということを1生懸命に訴えました。たとえば平安京で「奴婢解放令」が出ている。家内奴隷です。延喜年間(901~ 923)に「奴婢解放令」がどこで出たか。これは平安京です。そしてこれはあまり皆さんご存じないかもわかりませんけれど、私はとくに大事だと思っているのですが、嵯峨天皇の弘仁元年(810)から、源平が戦いました保元の乱の起こった、保元元年(1156)まで、死刑がまったく執行されなかった、世界でも珍しい都市が平安京です。346年間死刑をしていなかった都がわが平安京です。
 いかに平安京が人権問題と深いつながりをもっているかは、今申しあげたことだけでもおわかりになると思いますが、さらに京都の人文書院から発行しております『京都人権歴史紀行』という、私どもセンターが出版しました本を読んでいただいたらわかりますが、人権ゆかりの地が京都にはいっぱいあるのです。
 今日とくに皆さんに申しあげたいと思っておりました1つは、同志社大学のそばに相国寺というお寺があります。みな「そうこくじ」といっておりますが、正しくは「しょうこくじ」です。その塔頭の1つに鹿苑院があります。この鹿苑院の記録をしたお坊さんを僧録と申しますが、歴代僧録が書いた日記が残っているのです。これは鹿苑院の日記ですから『鹿苑日録』と申します。その延徳元年(1489)、室町時代です。その6月5日の条を、図書館で機会があったらお開きください。庭づくりをしている又4郎という人が出入りしているのです。
 京都は庭園めぐりが盛んですね。善阿弥という庭づくり師、当時は「山水河原者」と呼んで差別しておりましたが、その善阿弥がつくった庭園が、いわゆる銀閣寺(慈照寺)の庭です。あの見事な庭は善阿弥がつくったのです。スポンサーは足利義政と日野富子でした。お金は出したけれども、つくったのは差別された善阿弥なのです。庭園めぐりをするときに、京都の観光は人権問題を抜きに観光はできません。そこで、先ほど感謝状を贈呈させていただきましたけれども、わがセンターでは人権の視点から観光する「人権ガイド」を養成してまいりました。最初は、人権ガイドをつくっても利用する人があるか心配しておりましたが、幸いに利用者が多い。とくに修学旅行の皆さんが利用していただいております。
 『鹿苑日録』の延徳元年(1489)の6月5日のところを見ますと、「又曰く」と、又4郎がお坊さんにいったことが書いてあります。「某、1心に屠家に生まれしを悲しみとす」、動物の皮を剥いだり、庭づくりをしたり、そういう差別された家に生まれたのを悲しむ。その次です。「故に物の命は誓うて之を断たず」、素晴らしいですね。だから誓って動物をみだりに殺したり、人間を勝手に殺したりはしない。「又、財宝は心して之を貪らず」、お金や宝物は私どもはみだりにむさぼらない。差別された山水河原者でなければいえない言葉が『鹿苑日録』に書いてあります。

 時間がだんだん迫ってまいりましたので、終わりに近づいてきております。大正11年(1922)3月3日、京都岡崎の公会堂で、全国水平社が創立宣言をいたしました。西光万吉さんがこの文案を書いたのですが、素晴らしい名文です。いちばん最後には、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」というように、被差別部落の皆さんが内外に向かって宣言をした場所は、わが京都であります。
 ユネスコが世界記憶遺産の登録をしておりますが、私は個人として水平社宣言を記憶遺産にすることに賛同して、その運動に参加しています。世界に人権宣言はたくさんある。けれども、差別されている団体が人権宣言を出した例はほとんどないのです。フランスの議会が出したり、イギリスの議会が出したり、そういう人権宣言はありますけれども、これは水平社みずからが宣言をしているのです。
 しかもこれは大事なのですが、なぜかあまりいわないのですけれども、創立宣言以外に3つの綱領を定めているのです。その3つの綱領のなかの1つに、「吾等は人間性の原理に覚醒し人類最高の完成に向かって突進す」と。被差別部落民であるわれわれは、人間の理性の本質を見極めて、人間の完全なる解放をめざすというように書いてあります。差別からの解放をめざす。そして人間として最高の人間になるのだということを書いています。私は、この人権宣言が京都で、しかも岡崎で発せられたということの意味をもう1度考えてみる必要があると思います。

 ご承知のように、20世紀の前半は第1次世界大戦、第2次世界大戦がありました。18世紀でも19世紀でも世界の各地で戦争はありましたけれども、世界中が戦争に巻き込まれたのは第1次と第2次の世界大戦であります。戦争ほど最悪の人権侵害はない。命が奪われる。自然が破壊される。文化財が破壊される。やっと20世紀の後半に平和が戻ってきたと思っておりましたけれども、イスラエルとパレスチナの紛争のように、民族や宗教をめぐる対立が続いております。私は、20世紀は人権が侵害された、人権受難の世紀であったと思っています。先ほど申しあげました1994年の十2月に国連は、「人権文化」という素晴らしい言葉「Culture of HumanRights」を使いました。私は、現在の日本の状況を考えますときに、人権文化の世界とはほど遠い。21世紀をぜひ人権文化の輝く世紀にしたいと願っております。当研究センターがその実現をめざしてさらに努力していくよう心から期待しています。時間がまいりましたので、私の記念講演はこれで終わります。ご清聴ありがとうございました。